浄土真宗の教え3

親鸞聖人のご生涯

誕生~ご出家

親鸞聖人は、承安3年(1173年)4月に京都・日野の里でお生まれになられました。
幼名を松若丸(まつわかまる)とおっしゃいました。
幼くして、母とお別れになられた聖人は、御年9歳の春、伯父の日野範綱(ひののりつな)に連れられて、青蓮院(しょうれいいん)の慈鎮(じちん)和尚のもとで得度をし、出家をしました。
伝説によりますと、その日はすでに夜が遅かったので、慈鎮和尚が「明日にしたら」とおっしゃられました。すると聖人は、「明日ありとおもう心のあだ桜 夜半にあらしのふかぬものかは」と歌われて、その夜に得度の式をうけられたそうです。
御年9歳、現在の年齢では8歳になったばかりの聖人が、本当にこのような歌を詠まれただろうか、との疑問を持つ方もおられるかもしれません。
しかし、大切なことは聖人が得度をされた理由は、この歌にもあるように「世の無常」を感じたからです。
無常をなげくのではなく、無常であるからこそ、煩悩具足の凡夫が、浄土へ生まれることができる、というお念仏の道を聞き開くためであった、とこの伝説は私たちに示してくれます。

比叡山

お得度をされた親鸞聖人は、比叡山にのぼられました。
比叡山は天台宗の根本道場であり、日本での仏教の最高学府として、多くの僧侶が集まっていました。
法然上人や日蓮様、道元様、栄西様など、後に一宗を興される高僧方も比叡山で修行をされました。
聖人はあらゆる困難に耐えて、ただひたすらにその教えを学び、修行に精進されたようです。
しかし、その激しい求道の日々の中で、自分の力で自分自身を磨いていく聖道の道がいかに至難なものであるかに気づかれるようになりました。
それは決して聖人の求道に対する熱意がなくなったからではありません。
むしろあまりにも真剣に仏の悟りをもとめられたからでした。
聖人は修学に励み、修行に精進されましたが、学問が深まれば深まるほどに、修行をつめばつむほどに、かえっていままで気づかなかった自分の内側のまずしさが知らされ、自分の心のみにくさが見えてくるのでした。

「定水(じょうすい)を凝らすといへども識浪(しきろう)しきりに動き、
心月(しんげつ)を観ずといへども妄雲(もううん)なほ覆ふ。」

『嘆徳文』

という言葉は、この頃の聖人の心境をよくあらわしているものといえましょう。

比叡山2

恵信尼様のお手紙に「殿の比叡の山に堂僧つとめておはしましけるが、山を出でて、六角堂に百日篭らせたまひで…」とあることから、後に下山されることになる比叡山では、堂僧であったことがわかります。
堂僧とは、常行三昧堂で、「不断念仏」という文字通り念仏のみを称える行を行う立場です。
聖人は、このような過酷な行を行いながらも、悟りの境地を見つけることができず、苦悩の日々を送られたようです。
そして仏道の行き詰まりを解決すべく、奈良・大阪にある聖徳太子のお廟所に参拝されました。
親鸞聖人は聖徳太子を「和国の教主(日本のお釈迦様)」と讃えて深く敬っておられました。
聖徳太子といえば、「17条憲法」を制定された方として知られますが、その憲法の第一には、「和を以って貴としとなす」、第二には「篤く三宝を敬え、三宝とは仏・法・僧なり」と示されるように、人間が争うことなく、おだやかに過ごすためには、仏法によるべきであることを教えてくださいます。
親鸞聖人は、聖徳太子の廟所参拝の後、六角堂(聖徳太子ゆかりの京都のお寺)に参詣され、これ以上比叡山にとどまっていることは無意味であると思われ、山を降りる決意を固められました。

法然上人との出会い

人生は出遇いです。いつ、どこで、どんなことで、誰に出遇うか。
そのことがお互いの生涯を決めていきます。
親鸞聖人は、20年という長い比叡山での修行に行き詰まって、その解決を聖徳太子のご示現に仰ごうと、京都にある太子建立の六角堂に百日の参籠をされたのでした。
そして、太子の夢告に導かれて、東山吉水の草庵に法然上人を訪ねられました。
草庵には、上人の教えを聞こうと毎日庶民が群参していました。
聖人もそのひとりとなって100日間も聴聞され、ようやく自分の救われる教えを思い出されたのでした。

聖人は、この出遇いを『教行証文類(総序)』に「遇い難くして、遇うことができました。聞き難くして、真宗の教えを聞くことができました」と感佩されています。
また『浄土高僧和讃(源空讃第4首)』には
「本師源空イマサズバ コノタビムナシクスギナマシ
もし法然(源空)上人との出遇いがなかったら、せっかくこの世に人間として生まれてきても、
救われることなく無駄な人生で終わってしまうところでした。」
と述懐しておられます。

越後への流罪

「承元の法難」に会われた親鸞聖人は越後へ流罪と決まりました。
当時の規則では流罪は死罪に次ぐ重罪でした。
聖人は輿に乗せられ、追立役人に警護されて、京都から逢坂の関、船で琵琶湖を北上、山路を越前越中、それから船で越後国分寺に程近い居多ヶ浜に上陸されました。
しかし、流罪という不条理な刑罰を被ったことについて、聖人は後年『教行証文類』の後序に
「主上臣下、法に背き義に違し、忿をなし怨みを結ぶ。<中略>罪科を考えず、あるいは僧儀を改め姓名をたもうて遠流に処す。予はその一なり」と述べられています。
しかしまた、従容として刑に服された師法然を見る時、聖人は「都から遠い越後という未開の地では、人々は生死に迷っているだろう。
師法然が流刑になられたからこそ、越後の人々に仏の慈悲を説く機会がこの自分に訪れたのである。
これも師から教えを受けたからこそだと感謝し、潔く配所へ赴こうと師へのお陰と受け取っていかれました。
越後では、最初の1年は役人の監視下にあり社会から隔離されたままで、食は一日米一升、塩一勺だけで、翌年春になって種子籾をもらい、以後は自活の外に生きる道はありませんでした。
自給自足に備えた、荒れ地の開墾も、流人の聖人が耕作できる土地は河原くらいだったのです。

赦免・法然上人との別れ

越後で生活するうちに、聖人はこの地の豪族・三善為則の息女得信尼と結婚して幾人かの子をもうけ、文字通り肉食妻帯の日暮らしを送られました。
非僧非俗の「愚禿(ぐとく)釋親鸞」と名のりをあげられました。
建暦元年11月、親鸞聖人は法然上人とともに赦免(しゃめん)されました。
自由を取り戻した聖人は、当然のことながら京都へ帰ることを考えられたでしょう。
ところが、法然上人が翌年正月25日帰洛後間もなく亡くなられたという知らせが入ったのです。
京都に帰っても師法然上人に会えないということもあってか、聖人は越後にとどまって念仏の布教に尽くすこととされたようです。
その後2年余を経た健保2年、聖人は関東の地へ移ることを決心されたようです。
42歳の時です。
何がそうさせたか定かではありません。
弥陀一仏のみの救いを信じ、諸神・諸菩薩に祈ることを否定する聖人の布教が旧仏教の人々を強く刺激したり、旧仏教と連なる豪族たちとの間に軋轢を生じたかもしれません。
あるいは、念仏の教えをさらに広く伝えることこそ故上人の恩に報いる唯一の道であるとして、新天地を求めて東国へ向かわれたのかもしれません。

関東の親鸞聖人

・親鸞聖人の田植え歌
五劫思惟の苗代に 兆歳永劫のしろをして
雑行自力の草をとり 一念帰命の種おろし
念々相続の水流し 往生の秋になりぬれば
実りを見るこそうれしけれ
南無阿弥陀仏 南無阿弥陀仏


関東の真仏寺に伝えられているお話です。
平太郎という人が、親鸞聖人から、本当の仏教を聞き、ひとりでも多くの友人、知人にも聞いてもらいたいと人々に声をかけ、誘いました。
ところが、親鸞聖人をお呼びした日は、田植えの真っ最中。
だれひとりとして聞きに来る人はいませんでした。
平太郎が困り果てていると、聖人は衣の裾を上げられ、泥田へ入って行かれ、村人と一緒に田植えをなされたといわれています。
親鸞聖人は田植えをされながら、村人たちに歌を歌われたそうです。
その歌は今日、親鸞聖人の田植え歌として伝えられています。
人々は、歌の意味も知らず、ただ「おもしろい」と声をそろえて唄いだしたといわれています。
やがて、人々は仕事が終わると、田植え歌の意味が聞きたいと、寺に集まるようになりました。
親鸞聖人は、この歌を通して、阿弥陀如来の広大なお慈悲をお説きになられました。

関東の親鸞聖人2

常陸にはいられた聖人は、下妻・小島や稲田などに住んで、
20年にわたって伝道にはげまれました。
その努力が実をむすんで、徳を慕い、教えを求める人々は、常陸を中心に、遠く奥州方面にまでおよんだのであります。
しかし聖人は生涯にひとつの寺院も建てず、縁にしたがって集まる人々を、身分の上下でへだてることなく、おん同朋、おん同行とよびかけ、あるときは道ばたのお堂で、またあるときは民家の炉ばたで、膝をまじえて仏法を語り合われました。
聖人はこのようにして、人々に教えを伝え、法を広めながらも、源空上人の十三回忌にあたる元仁元年52歳の時、常陸の稲田で『教行信証』六巻を執筆されましたが、のちに真宗教団が成立して、親鸞聖人を開祖と仰ぐようになってから、この元仁元年を立教開宗の年と定め、この書が一宗の根本聖典であるところから、『本典』とも『本書』ともよぶようになりました。

関東から京都へ

20年あまり関東に住んで、真実の教えを広められた聖人は、62~3歳の頃、家族を連れて京都に帰られました。
長い年月をかけて、せっかく育ててきた多くの同行や門弟をおいて、帰洛を思い立たれた原因については、様々な説がありますが、たびたび弾圧される念仏の教えが、正しい立派なものであることを内外に明らかにするためにも、すでに草稿のできあがっている『教行信証』に手を加え、完成しなければならないと思われたことが主な理由と考えられます。
聖人は、後の世の人々に、浄土真宗の教えを伝えようと、ひたすら著述にはげまれました。『教行信証』の改訂が一段落すると、わかりやすい和文の書物を書きはじめられたのであります。
76歳の時には、『浄土和讃』『高僧和讃』を作り、85歳になっても尚『一念他念文意』や『正像末和讃』など、数多くの書物を執筆しながら、かわるがわる関東から訪ねてくる門弟に面接し、また念仏生活のありかたや、教義をわかりやすく説明した手紙を出されました。

善鸞様義絶

聖人が京都へ帰られてからの生活の中で特筆すべきことは、わが子善鸞(慈信房)を義絶されねばならなかった事件であります。
親鸞様が去られた後の関東では、念仏の教えを誤解しはじめる門弟が出てきました。
そこで善鸞様を関東にのこしてこられた門弟たちを教化するために、いわば聖人の代行として、東国におもむかれたのであります。
しかし門弟や同行の派閥争いに巻き込まれ、いつしか、「父親鸞の真意は、ある夜ひそかに自分ひとりが父から授かった」と吹聴しはじめたのです。
いかに善鸞様が、師である親鸞聖人の実の子であっても、ことは信心と教団にかかわる大切な問題でありますので、関東の主だった代表者は、聖人に会って真偽を問いただそうと、はるばる十余カ国の境を越えて上洛してきました。
その人たちに対して聖人は、善鸞の言う密伝のうわさを否定するとともに、「親鸞におきては、ただ念仏して弥陀にたすけられまゐらすべしと、よきひとの仰せをかぶりて信ずるほかに別の子細なきなり」(歎異抄)と、ご自身の信念をあきらかにされました。
ついに建長8年8月29日をもって、父と子の縁を切ることを善鸞に告げました。

遷化

聖人が京都へ帰られてからの生活の中で特筆すべき親鸞聖人は、弘長2年11月下旬の頃から、ちょっとした病気になられました。
それからは世間的なことは全く口にされず、ただ阿弥陀様のご恩の深いことを話され、絶え間なくお念仏を申しておられました。
そして11月28日正午、お釈迦様のご入滅にならわれて、頭を北に、顔は西に、右脇腹を下にして臥(ふ)したまま、とうとうお念仏の声が途絶え、ご往生されていかれました。
享年90歳でした。
その時のお住まいは三条富小路でしたから、遠く賀茂川の東の道を通って延仁寺で火葬にいたしました。
翌日、ご遺骨を東山の麓にある大谷の地に納めました。
この時親鸞聖人のご教化のご縁のあった人々は、みんな聖人のご遷化(せんげ)を悲しみ、涙を流したことでした。
親鸞聖人のご往生から10年後の文永9年冬の頃、大谷にあった聖人のお墓を改葬し、大谷より西にあたる吉水(よしみず)の北のあたりにお堂を建て、ご遺骨をそこへ移して、お堂には聖人の御影像を安置しました。
この頃になると聖人の弘めた本願念仏の教えは、益々盛んになり、諸国に満ちあふれ、廟堂にたくさんの人が聖人のお徳を慕ってお参りにやって来るようになりました。

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